ホーム
最新
山梨
全国・海外
スポーツ
Eye
安心・安全情報
おくやみ・催し・人事
写真・動画
分かる・知る
山梨日日新聞社インフォメーションサイト

日本ステンレス工業・石岡博実会長<1>
16歳、故郷離れて建具屋修業

2015年11月12日 11時30分
生い立ちを語る日本ステンレス工業の石岡博実会長=大月市猿橋町殿上

生い立ちを語る日本ステンレス工業の石岡博実会長=大月市猿橋町殿上

 1953年、長男として青森市で生まれました。3人きょうだいで、妹が2人います。父の職業が大工だったため、幼少期から父の後を継ぐつもりで、職人を志していました。

 負けん気が強い子どもでした。相撲やボクシング、スキーもしました。雪の上に円を描いて、土俵に見立てて相撲をしたことを覚えています。青森は当時、今と比べても雪が多く、午前5時に起きては登校前に雪かきをしていました。玄関が埋まり、2階の窓から外に出ることもしばしばでした。

 中学3年の冬、父が車でスリップ事故を起こしてしまい、慰謝料の支払いなどが家計を圧迫したこともあり、高校進学をあきらめました。父に「俺働くよ」と相談しましたが、職業訓練校への進学を勧められたため、その道を選びました。今思い返せば、高校には通えませんでしたが、手に職をつけるという意味で貴重な1年間になりました。

 職業訓練校卒業後、静岡県沼津市に修業に出ました。当時、職人の修業といえば、住み込みが当たり前の時代でした。修業先は建具屋でした。父から「大工をやるのであれば、建具屋で学びなさい」と言われたためです。建具屋は欄間や書院を作る細かい作業が多く、精密さを求められます。大工にも生かせるから―と、父がアドバイスしてくれました。

 まだ16歳の若かりしころです。地元から静岡県に出るのは修学旅行のような感覚で…。からかわれないようにと意識的に言葉を直し、青森のなまりはすぐに消えました。父からすると、「かわいい子には旅をさせろ」ということだったと思います。

 誰にも負けたくないという思いで、通常は午前8時15分開始のところを6時から仕事場に入り、掃除や作業の準備をしました。腕ではかないませんので。夜も8~9時に仕事を終え、こっそり先輩の道具箱を開けて工具を観察しました。図面を描き写したりもしました。まだ工具を手作りしていた時代です。作り方は誰も教えてはくれません。そうやって技術を盗み、自分の成長の糧としていました。
〈聞き手・野口健介〉

                     ◇
 県内関連の企業経営者に半生を語ってもらい、その成功の秘訣(ひけつ)に迫ります。=毎週木曜日更新。次回は19日に掲載します

■日本ステンレス工業
 1988年に設立。大月市猿橋町殿上に大月本部、甲府市下曽根町に甲府本部を置く。主に屋根の施工や修繕、住宅のリフォームを手掛ける資本金は1千万円。従業員数は34人。